第2回 「MONSTER」―2002年までの浦沢作品―


Monster (1) (ビッグコミックス)
作者:浦沢直樹
版元:小学館
連載:ビッグコミックオリジナル


ネタバレしてます。
消してしまった記事の再録です。
口調が違うのはまあスルーで。


さてまずは「MONSTER」です。まあ、それほどミステリーとして優れてるとは思わないんですよ。まず真相に近づく手段が、「誰かと出会う→助ける→情報を聞き出す」の繰り返しになっていて(それゆえ間延びもする。登場人物一人一人のエピソードを浦沢は丹念に描くから)、能動的にテンマが謎に近づいてる感覚が薄い(それを言い出せば、テンマが明らかに巻き込まれ型*1なのだが)。


テンマが真相に近づく手段は知ることではなく、多くの場合誰かに出会うことになっている。情報を得るために誰かに出会うのではなく、誰かに出会った結果情報を得る。些細な差だが、そこに話の間延び感がある。「困ってる人を助けた結果情報を得る」と「自分の欲しい情報を持っている人間を助けた結果情報を得る」では、困った人間を助ける人間の気持ちに差が出る。そして、後者ではなく前者を選ぶのはやはりテンマが善人だからではないか。下心を隠して相手に近づくにはテンマは余りにも心が白すぎる。


同時に図書館あたりまでは異様な存在と思えたヨハンも、実はただのトラウマボーイだったことに、もう21世紀なのにそれかと脱力した記憶がある。ヨハンは「ナチュラルボーン・モンスター」だと思って読んでいた読者も少なくなかったのではないか。途中までは、よく漫画に出てくるような「設定では感情の欠落してるけど、実際はただクールなだけのキャラ」ではなく、感情と同時にそれ以外の様々な何かが欠落した文字通りのモンスターだった。それが謎が解かれていくと、カリスマ性を備えてヒトラーに並ぶかぞれ以上の存在になりえたヨハンが、最後にやったことといえば街ひとつを混乱に陥れただけだった(ヨハンが完全なる自殺を遂げるためだったにせよ、物語としてはクライマックスなのでスケールの小ささは否めなかった)。


トラウマオチに関しては、早い段階で明かされていればまだよかった。トラウマが原因で人生をどれだけ狂わされたかを丹念に描けるから。だが、実際はヨハンが511キンダーハイムを壊滅させたエピソード等で、彼の怪物性を描いておきながら最後の最後でトラウマが原因としめている。考えて欲しい。ハンニバル・レクターの怪物性の原因がトラウマだと言われてどう思うだろうか*2。こうなった原因は多分、浦沢が徹底した悪を描けない(能力的な問題もあるかもしれないが、それ以上に性格的な問題で)からではないだろうか。


「怪物ヨハン」ではなく「人間ヨハン」として物語を終わらせるためには、世間と折り合いがつくような分かりやすい理由*3が必要だった。もちろん、そこに安心する読者もいるはずだ。京極夏彦の「魍魎の匣」で主人公の中善寺秋彦は「動機は、世間がその犯罪が何故行われたのか納得し安心するための方便だ」という感じに喝破するのだが、ヨハンに関しても似たようなことが言える。怪物だったはずのヨハンだが、そうなる原因はトラウマだったという分かりやすい構図を与えれば、得体の知れなさは払拭され共感が得られるし、ヨハンは怪物から人間に戻れる*4。それをあっさりやってしまうのが良くも悪くも、さらりと人情話を描いてしまう浦沢の淡白さであり、根っこが善人であることの現われかもしれない。


だが、ヨハンがなんのトラウマも理由もなく、突然完全なる自殺を求めて自分に関係する人間を死なせていくほうが不気味だったと思う。なんの理由もなく突然というものほど不気味なものはない。「終わりの風景を見せる」というのも、無邪気な悪意の発露ではなく、トラウマに関連しているのが惜しかった。ただ、そうするとテンマが関わる意味合いが薄れてしまうのかもしれないが。


その淡白さはテンマにも出ている。この作品は「殺人の容疑者になり、医者としての輝ける人生もドブに捨て逃亡者として生きていかざるを得ない男」の物語なのだ。にもかかわらずテンマがもがき苦しんだ記憶がない。それなりに苦しむが結構あっさりと逃亡者になることを自己承諾している。これが土田世紀あたりなら「違う。俺は、俺はやっちゃいねえ!」と魂の叫びでもするだろうし、新井英樹ならもっと業の深い逃亡者になっていただろう。テンマはそれなりの緊張感(検問でドキドキするなど)は見せるが、警官の母親を救うときなど実に堂々としたものだ。つまり、切迫感がない。自分がヨハンを殺すと決意するのも同様だ。そして精神的にも揺らがない。


それは他の作品の主人公にも言える。ジェドもキートンも柔も幸も精神的にはタフだし思いやりがあり(善人で)、それぞれの生きる世界での能力は天才的だ*5。完璧超人が主人公といってもいい。ある程度安心して見ていられる主人公のピンチ(これが結構大事だったりする)に、人間味のある部分も見せる悪役たち。確かに安心して読める形ではある。「YAWARA」は売れる漫画を描こうと思って描いたと発言した記憶があるが、基本的にどの作品も味付けは違っても売れる漫画だ。マスに好まれると言ってもいい。そこに職人性を感じるのだ。


BSマンガ夜話で「MASTER KAETON」が取り上げられた際、「8分の力で流している」だとか「ほらこうすれば面白いだろ。というのが感じられてやだ」だとか、前者はいしかわで後者は岡田が言っていたと思うが、そういう評価を受けていた。個人的にはどちらにも同意しない。むしろ、浦沢が今まで描いていなかったような全く異質なマンガをいつ描いてくれるのだ。ということの方を読者の勝手で言いたい。


そういう意味で浦沢は職人だ。クリエイティブな仕事だと思われる漫画家に対し、職人というと創造性がないと非難しているようだが、個人的には物凄く評価しているのだ。出す作品出す作品をきっちりヒットさせるが、世の中の流行(萌えだとかね)に流されるわけでもなく、文字通りのストーリー漫画を提供するというのに、職人性を見る。その職人性というのは安心感につながる。だから、自分自身「パイナップル・アーミー」も「MASTER KAETON」も買っているのだ。「MONSTER」について語りながら浦沢の問題点を挙げ続けただけのように見えるかもしれないが、実は結構好きなのだ。


なぜ「MONSTER」は枝葉のエピソードでだれても読み続けられるのかというと、やはりそのエピソード単体でみるととてもよくできているからだ。個人的には大学時代の友人だけでなく、テンマもカンニングしていたというエピソードなどとても好きだったりする。そのほかにもダンスパーティーやココアの話など記憶に残っている。特にグリマーの「超人シュナイダー」のエピソードとアル中探偵リヒャルトの悲劇など白眉だった。あれだけで物語が作れてしまう。だから、「MASTER KAETON」の方が「MONSTER」よりもいいというのはこの特性のためだ。

エピソード作りが上手い浦沢にはうってつけの作品で、役者でいうところの「ハマリ役」ならぬ「ハマリ漫画」だった。小さな物語を作るのは抜群に上手いのだ。「MONSTER」はミステリーとしてはとても優れているわけではないと思う。だが、何度か読み返しているのはよく出来たそれぞれのエピソードを読みたいからなのだ。ヨハン探しの旅をする中で様々な人間に出会い、その人生に触れていくのが面白い。


「MONSTER」は長すぎると言われるが、どこを削っても「MONSTER」足りえないのだ。過剰なボリュームで主要人物以外のエピソードが語られて、それによって成立している物語だからだ。原因は、テンマのキャラが無色透明に近いからだ。テンマが強烈な個性を持たないがゆえに、脇役のキャラが勝手に立つ。だが、無色透明なので脇役の色に染まることはない。それゆえ、淡々と様々な人物の人生に立ち会える。これが浦沢の計算であるにせよ無意識であるにせよ、日本人テンマによる「東ヨーロッパ人生巡りツアー」は成功だった。物静かで勤勉な日本人というステレオタイプな設定だったからこそ、逆にこの作品は成立したのではないか。もし本当に映画版を作るのなら、どうせ非日本人がテンマ役をやるのだろうが、自然と他人の人生に交わるテンマを描くことはできないと思うのだが。


20世紀少年」も「PLUTO」も完結すればまとめて買うだろう(「MONSTER」を見る限り枝葉が長いのでまとめ読み向きと判断して)。なんだかんだ不満を挙げてもやっぱり気になる作品を描いている。結局読む時点で浦沢の勝ちなのかもしれない。

*1:事件に能動的にかかわるのではなく、巻き込まれるタイプ。ミステリーでは無実の罪を着せられたり、過去の犯罪を見逃すために別の犯罪に加担させられたりなどがある

*2:現実は、猟奇殺人犯などを見ていくとトラウマが原因と思われるものも少なくない。ただ、物語の世界くらいトラウマから解放された怪物が見たいというのは高望みだろうか

*3:幼児が母親に捨てられる。それも双子の妹との選択の末捨てられる。という状況は分かりやすいと言える安っぽさは全くない。だが、物語としては分かりやすいと言わざるを得ない

*4:結局、この作品には怪物はいない。ヨハンを捨てた母親こそ怪物だったというのも少々苦しい。連載当時すでに車内に子供を置き去りにして死に至らせるパチンコ狂いの母親のニュースはあった。科学のために心売ったにせよ(なぜ母親がヨハンではなくニナを選んだかは分からなかったはず。単純に男なら一人でも大丈夫だろうと思ったのかもしれない)ヨハンの母親程度では怪物と言えない時代になってしまっている。安っぽい言い方になるがヨハンを生み出した狂気の時代そのものが怪物なのかもしれない