第5回 「戦線スパイクヒルズ」―アイデンティティーを守るための犯罪―


戦線スパイクヒルズ 1 (ヤングガンガンコミックス)
漫画:井田ヒロト/原作:原田宗典
版元:スクエア・エニックス
連載:ヤングガンガン


読み返すと、こだわっていたわけではないのに「あらすじ→大まかな感想→気になるポイントを掘り下げる」という形で書いていたので、これからは意識的にその形にしようかと思っている今日このごろです。


天才的なスリの才能を持つ高校3年の少年ノムラは、スウガクとあだ名される同級生蕪木にスリの現場を見られていた。何を要求されるか動揺するノムラに、スウガクが話したのは自分の計画への参加だった。それは、とあるヤクザが入手する私大最高峰の早慶大の入試問題を横取りして、名門校への受験に成功することだった。その計画に同じく高校3年の少女キクチが参加する。ノムラとキクチの恋、3人それぞれが抱える複雑な家庭事情、ノムラ以上の才能を持つ老婆との出会い、ヤクザとの接触。などなど様々な要素が絡み合い、高校生が経験するには余りにも危険な日々が始まった。


天才的なスリの才能を持ち、魅力的な美少女のキクチが彼女になり、危険な計画に参加しスリリングな気分を味わうノムラ。彼のキャラは思春期の少年のツボを上手くついています。また、その反面、年頃の少年が抱えがちな「周りの人間と自分だけは違う」というノムラの感情を、1巻で早々にスウガクが見透かし否定してみせます。原作を読んでいないので漫画で判断しますが、思春期の少年の願望や「他人とは違う」という感情の象徴であるノムラと、老成し幼さを見せない(少なくとも3巻まででは)キクチの二人はバランスがあり、魅力的な組み合わせです。


それはもう細かく思い出して書くのも痛々しいんですが、「他人とは違う特別な自分」という感情には思い当たるフシがあり、また彼女が出来て舞い上がる点も同じく思い当たるフシがあるので、高校生のときに読んでいたらきっとノムラにシンパシーを感じていたと思います。だけど、もう社会人になってしまうと、ミステリーが好きなせいか犯罪計画をどう成功に導くかの方に興味が向いていますし、若いなあという感じで微笑ましく若者たちを見て楽しんでいる感じの方が強いと思います*1


さて、まず主要登場人物を掘り下げてみましょう。主人公のノムラは、スリの才能を持っている=犯罪者で、母親は新興宗教にどっぷり。そして、同級生に対しても丁寧語を使いながら心の中では見下し、タメ口で話す彼女のキクチ以外の人間とは距離感がある*2。スウガクは死んだ母親の再婚相手とその息子に、虐待に近い扱いを受ける日々。出張ホストのようなバイトに精を出し、ヤクザの事務所に盗聴器をしかけることに全く抵抗がない。キクチは母子家庭だが、男と遊び歩き家庭を省みない母親を嫌悪し、無邪気にノムラを愛しながら、反面大麻を吸わせたりもする。


このように書き出して分かるのは、3人とも家族に問題があり、そのため家庭が安息の場ではないこと。そして、そういう家庭から逃げ出したいので、入試問題を盗むということです。ただ、ノムラもキクチも気づいていないのが、名門大学に入ったからといって、別に実家から通えばいいだけのことで、家庭からの開放にはならないこと。その点に唯一気づいていそうなのがスウガクで、彼だけが入試問題で大学に入ることだけでなく、儲けることまで考えています。もちろん、ノムラだってスリで儲けた金で、実家を出てキクチと同棲生活が出来るだろうけど、そこには思い至らない*3


そして、3人はそれぞれが自らのアイデンティティーを守るために犯罪計画に参加しています。ノムラは自分とキクチが楽しい大学生活を送るために、入試問題を盗むつもりだったはずなのに、スリという行為そのものに魅せられていきます。また、キクチに会うことができるから計画に参加するという面も強くなっていきます。彼にとって、名門大学に大学合格したい(そして、将来が保証されている側に立ちたい)という強い思いは希薄なままです*4。つまり、キクチに好かれ続ける自分を維持するために、そしてスリの天才である自分を守るためスリの腕を上げること望んでいます。


スウガクにとって、実の母親のいない最悪の家庭から抜け出すために、同時に義父義兄に復讐するために(どう復讐するかはまだ明かされていませんが)、入試問題から生まれる利益を欲しています。また1回もスウガクは早慶大に入りたいとは言っていません。彼にとっても大学入学は目的ではありません。そして、温かい家庭で育った自分を取り戻すための犯罪計画です。


キクチはどうでしょうか。彼女は母親が男と遊んでいる家庭に嫌気が差しています。そんな中ノムラと出会い、彼に恋して、高校生よりも自由な大学生活の中で二人楽しい生活をしたいと思っています。彼女にとっても早慶大に入ることはさして重要ではありません。たまたま早慶大の入試問題が入手できそうだから、そこに入りたいだけです。今よりももっと楽しいであろうキャンパスライフをノムラと送る自分、そして仲間と何かをやるという連帯感を喪失しないために計画に参加しています。


つまり、3巻時点では彼らの誰一人として、名門大学に入りたいとは強く思っていないわけです。彼らが計画に参加している動機はどれも今の環境を抜け出し、自分の大事な部分を守るためです。たまたま、大学受験という間近に迫った問題と今の環境がシンクロしただけなのです。だけど、そういう「大学受験」というテーマがあるからこそ、主人公たちは高校生でいられるわけです。もし、大人が主人公なら金を儲けて話が終わってしまいます。


今後、ヤクザから入試問題を盗めたとしてキクチの身の安全をどう保証するのか。キクチに入れ込んだノムラは高い確率で自分と相手との気持ちの差に気づくはずで、そのとき果たして計画に参加し続けるのか。などなど、原作を読んでいないので、今後の展開が楽しみでもあります。もっとも楽しみなのは、計画が成功したとき、そして、大学に見事入学したとき、彼らはどうなっているのだろうかということです。そんなことを考えながら、若いっていいなあと思いながら4巻の発売を待っています。


次回は松井優征魔人探偵脳噛ネウロ」を予定しています。

*1:そういう意味では「G戦場ヘブンズドア」も目標に向けて頑張る高校生を見守る感じで読んでもおかしくないです。だけど、マンガ家になるという高校生に限らず大人でも目標にすることがメインテーマだったため、それほど登場人物と距離感を感じることはありませんでした。

*2:ノムラのモノローグはスウガクとキクチと一緒にいるとき以外は、大体負の感情で、スリのときは獲物を冷静に分析し、正の感情がむき出しになるのがキクチに対する思いだけです

*3:母親を初めて怒鳴りつけたとき、ノムラは「早慶大に受かってやる」とは言うが、「その代わり受かったら、ここを出る」とは言わない。

*4:将来に対する不安はあっても、それは信者にさせられるかもしれないとか犯罪者として生きることになるかもしれないということに対して、つまらないサラリーマンになるかもしれないという不安は現実的でない希薄なものです。